clockwork cat's metaphor

ドラえもんは昔は黄色だった。

 
失恋を経験し
元気の素と間違えて
悲劇の素を飲み
涙によってメッキが剥がれ
地の青色が見えた。
 
ドラえもんといえば青色である。
もはやそれはモチーフであり、
個人を象徴するものである。
(ドラえもんズは全員色が違う)
 
悲しみによって受けた傷跡が癒えると
そこには自分が残るのである。

絶賛五月病さんに送るなにか

五月病とはなにか。

 
調べると「新年度の4月に入学・入社した新人に、5月ごろになると現れる精神の不安定状態をいう語。」らしい。
 
私の勝手な推測ないし想像及び独善的考察によると
実存的不安、なんじゃないかと思う。
こっちはどういうことなのかっつーと
具体的な脅威を超越した、人間の存在その ものに関する究極の不安のことである。実存的不安には、「死が 不可避である」ことに対する不安、「自分の人生には意味がない」 という経験に関連する不安、「人間は所詮一人である」という根 本的な孤独感などさまざまな側面がある。
 
らしい。
芥川の唯ぼんやりとした不安とやらもこれなんじゃないかー、なんてなことを考える。
 
じゃあどうしたらいいのよ〜となった時
とあるハードボイルド作家は
本を100冊読め、と言ったという。
大槻ケンヂは①とりあえず本を読むと言うことに集中することで不安を解消する
②広く知識を吸収する事でコミュケーション能力を上げる
てな考察をしていたが
自分はそこに
・客観的視点(視座)から物事を見つめる
・質的ではなく量的な基準を置く事で行動が明確になる
・達成過程でドーパミンを感じる
とかがいいねって思う。
ジャンルはなんでもいい。
漫画でもライトノベルでも、実用書でも雑誌でも。
飽きたら投げて他の本を読んでもいい。
読めなければ休んでもいい。
買わなくても図書館やサブスクでもいい。
気に入ったら買えばいい。
まぁおためしあれ。
 
私は一年中五月病なのでちょっと前から試してみた。今このへん。
よかったら参考までに。
 
1.都市型サバイバル読本
2.日本の確定死刑囚
3.トランプ台上の首
4.シックスサマナ 24 悪い奴ほど裏切らない
5.未解決事件ファイル
6.藤原カムイ初期アナログ短編SF拾遺集
ラマ・マニ
7.じこまん 1
9.おろかな日々
10.日記漫画 札幌の六畳一間
11.坊っちゃんの時代 1
12.魔法なんて信じない。でも君は信じる。
13.生きてる暇もない
14.小松左京 ウインク
15.ゾンビマン
16.ロバに耳うち
18.ぢるぢる旅行記
19.アジアを食う
20.新種発見!69匹の愉快な生き物図鑑
21.逃避めし
22.夜を走る トラブル短編集
23.麦酒泡ノ助的人生
24.白い人
25.江口寿史のお蔵出し 夜用スーパー
26.難解な絵本
27.毒を売る女
28.会談実話 怪の手形
 
ついでにこんなのもやってます。
気軽にDMおくってね
 
ではまたどこかで。

 

あなたにいうわけじゃないですが

一言いいでしょうか。

あのねぇ…。

死んでからがたがた言うんじゃなくて

何も言う必要がない位に

生きてる間に愛しきれよ!

ボケェ。

何を見て思ったとかはとくにないです。

やぁ

マンガでわかる依存症

みたいなのを見ていたら

自分がネット・酒・新しい本についての依存っぷりが分かって怖くなってしまった。

そのあとドーパミンに関しての様々な内容を見て立体的に考える事にしたのだけれど、まだ不安感は残っている。

きっとやたらめったら栄養とか健康についてうるさい人たちはこんな気持ちだったのだろう。

自分はゴリゴリの非モテなので

性欲に関しては明らかに依存気味で

見境がなくなってしまう。

ちょうどよく終わらす、みたいなことができない。

瞑想してみるというのがあってので調べたら

山奥で10日間コースというのがあり発狂するわいと思った笑。

自分のもたれかかる先には表現とか発信とか言葉なんてものがあって

溜め込んだものが外にでないと自家中毒気味に言葉が脳内をぐるぐる回りつづけてしまう。

そういう意味でネットは依存しやすいのだ。

紙に書けという人もいるとおもうのだけれど、それは脳味噌を拡張しただけなんじゃないかと思う。

そんな感じでぐったりしながら

西島大介凹村戦争というマンガを読んでいたら

女教師がスピルバーグ式にコンタクトをとろうとするのに対し、

主人公がM・ナイト・シャマラン式にコンタクトをとろうとしているのを見て

本音で泣きかけてしまった。

 

ぐっすん。

 

ドラゴン、革命、はさみ、こんにゃく

検索:ドラゴン 革命 鋏

とある高校で髪型についての問題があがっていた。

一個キーポイントになっているのが、生徒の民族的ルーツに基づいた髪型という事だ。
 
自分は校則云々に対して何とも思わない。
古い校則は変えるべきと訴える大人達の何割が自由な髪型や服装ができているだろう。
その自由さは法的に自由、というだけで集団からは自由とは言えないんじゃないだろうか。
そんな事ないと言うあなた。
あしたからシャンプーでウルトラマンヘアにして毎日暮らしてください。
服を着ただけで自由だったり個性が手に入る訳じゃーない。
自由でありたければ内面に自由さを抱いた方がいい。
 
髪と自由、髪と革命という言葉は密接である。
自由の代名詞と言えるヒッピーは長髪にする事で体制への反抗を表した。
文明開花はざんぎり頭と共に伝来した。
古くから頭髪を丸められる事で、反省の意を表明すると言われる。逆に言えば髪型は自らの表現の一つであり、アイデンティティであると言える。
 
基本的に(スキンヘッドは別として)近代では長髪が反発の表れであるといえる。
確かに見た目にも清潔感のなさやだらしなさが見えるロングヘアは規律からはみ出した行為のように思える。
 
しかし、例外とは全てに存在する。
髪を切る事で反発を表した人物がいる。
 
藤波辰爾である。
 
1988年、全日本プロレス天龍源一郎がマッチメイクの改善をジャイアント馬場へと要求。
前田日明が現在の総合格闘技へと通じるロープは飛ばない団体、UWFで活躍。
テレビでの中継も打ち切りになるかとよからぬ空気が漂っていた(という。私は生まれてないのでね)。
 
しかし団体の中で君臨し続けていた人物がいる。その人こそアントニオ猪木
もはや日本の父性と言っても差し支えないような人物である。
 
人は成長につれオイディプスコンプレックスを克服する為に心理的に父親を殺す、通過儀礼としての行為が存在する。
 
藤波辰爾にとってのそれは、髪を切ることであったのだろう。
三本の指に入る滑舌の悪さで猪木へと詰め寄り、思いの丈をぶつけ合い、顔を張り合う。
これはプロレス界ではよくある事である。
ここからだ。
ふと救急箱に目をやり、中にあるハサミを取り出すと髪を切り始める。
猪木も「待て。待て、待て」としかボキャブラリーを出す事が出来ない。
 
後に振り返って
本当に……勝った後、自分でなんか主張はしたいんだけども、なにか自分がやるものがない。で、たまたま……猪木さんに手を上げた後でしょう? で、控室に救急箱があって。ハサミもあって。……運がいいのか、悪いのか、僕の前にハサミが転がってきて。で、そのハサミを持って。そうしたらね、いろんな選手がみんな一瞬、僕がハサミを持ったもんだからシーン……って静まり返って。別に僕はなんにもするわけがないんだけども。それで、ハサミを持ったままやることがないでしょう? だから自分の頭を……」
 
と語っている。
 
革命とは時に滑稽なものであり、
目に見えない何かに動かされるものなのだ。

 

Creepy nutsのオールナイト最終回で。

creepynutsのオールナイトニッポンの最終回。

 
僕はこれまでradiko勢だったものの
さすがにリアタイしないとだめだなと思い
明日も早いものの氷結を飲みながら海に向かって歩きつつ聞くことにした。
 
社会人になった年にcreepyのレギュラー放送が始まった。
紆余曲折あって自分は転職したり上京したり失恋したりを繰り返して
その間、つまらない日常に潰されそうになる度にこの放送を聞きながら外をうろついた。「よふかしのうた」のコウくんのように。
そして家に戻る頃には何かわからないものが癒された気になっていた。
 
今ふっと、2部が終わって暗闇から徐々に景色が青色の早朝になっていった頃に聞いた
上柳さんのあさぼらけのタイトルコールを思い出した。
 
だから当時のような夜の街を歩きながら聞くのが礼儀な気がした。
 
…で、あれですよ。
エモ泥棒やら昔からのリスナーも置いてきぼりにする知らないスタッフの話やら相変わらず先輩いじりやらリスナーとのやりとりやら相変わらずにわかが嫌いな古参ファンとか(なつい)大江戸ラストかぁとか一時期広告コーナーずっとやっててやらない時あったよねとかギャル・オブ・ザ・デッドまだやってたんだとか時間余らせたりとか。
 
なんか通常回というタイトルがつくほどの通常回をやってのけた。
 
久々にtwitterでタイムラインも見た。
ここ最近は遠ざかってもいたんだけども、
ハッシュタグをつけた実況勢がいて、なんかよかった。
 
風の歌を聴け」って小説にラジオDJがでてくる描写がある。
一人で読書する主人公に急に電話をかけてきて鬱陶しくくっちゃべる。
そんな彼の事を村上春樹らしい内向的な主人公は「犬の漫才師」と呼ぶ。
物語の後半、ラジオDJは少女からもらった手紙を読み上げ、ほんの一瞬だけ自分の心境を伝える。
言い終えた後で曲をかけ、「曲が終われば犬の漫才師に戻る」と言う。
 
二人の放送は何となくそれを思い出した。
っていうか、それはちょっと前から思ってたんだけれども。
いつもへらへらしながら二時間くだらないトークをして
でもそんな中に時々、
人と触れ合ったり、本気で怒ったり、浮かれたり、成長したりエドシーランを探したりする。
そして犬の漫才師へと戻っていくのだ。
 
番組を卒業するという言い方があるけど
今回ぐらいその言い方がしっくりくる事はなかった。
なんかいっつもグラウンドでかっこいい姿を見せる
ちょい上の先輩が部室で盛り上がっている雰囲気がずっとあって。
 
卒業しても別に会わなくなるわけじゃないけど
前ほど様子を見る事はできにくくなるのかなーっていうところとか。
エモいのエモくないの言ってるところは
なんか卒業式で感慨にふかっている友達を茶化そうとするみたいな、あんな感じがしたりしてね。
 
卒業していったい何解るというのか、と尾崎豊は歌いあげたけれど、
creepyは僕たちは卒業できません、で未だ中学18年生なのかもしれない。
 
はー。
来週からは放送ないのかぁ。

 

#cnann

#cnnann0